(2018.08.29)


祭報インタビュー企画 第1弾

金城吉春「祭りは、伝えるもの」

この祭りの出発点をあらためて知りたいと思い、今でも体を動かしてチャランケ祭をリードしている会長金城吉春さんにお話しを伺いました。 

(場所:中野沖縄料理あしびなー、2017年7月)

*この記事は2017年のチャランケ祭季刊紙夏号に掲載したものです。

金城吉春(きんじょう・よしはる)●プロフィール

1 9 5 4 年生まれ。沖縄県南風原町出身。チャランケ祭実行委員会会長。 中野新道エイサー地方。中野沖縄料理あしびなー店主。1980年に上京し 塗装工として働きながら故郷を思い出し三線を弾くようになる。沖縄出 身者の「ゆうなの会」をきっかけにエイサーに取り組み、その後、東京・ 中野を拠点に活躍。踊り、歌、祭り、沖縄料理ーーそれらを通して様々 な人々の間に多くの縁を生み続けている。


 ●吉春さんのアイヌとの出会い

ーーーこの祭りの始まりは、アイヌの広尾正さんと吉春さんが出会ったことからと言われていますが、その時のことを教えて下さい。

吉春 民舞研(東京民族舞踊教育研究会)に呼ばれて、俺が和光小学校にエイサーを教えに行ったの。そしたらその日、広尾さんもアイヌの踊りを教えに来ていて。終わったあと焼肉屋で会ったの。

ーーーだからチャランケ祭には、和光小が参加しているんですね。当時民舞研と吉春さんはどのような繋がりだったんですか?

吉春  (民舞研の会員であり和光小の教員だった)園田洋一さんが、俺たちの練習場所の(中野北口)広場にエイサーを教わりに来てたの。それで小学校にも教えて来てくれって。

ーーー当時、吉春さんたちは毎晩のように広場で練習していたんですよね。

吉春 うん。

ーーー広場で練習していると、いろんな人が参加して来ましたか?

吉春 うん。

ーーー沖縄出身ではない人がエイサーを踊るってことに疑問はありせんでしたか?

吉春 ないよ、かえって嬉しいよ。

ーーー和光小に教えに行ったことですけど、学校に呼ばれるってどんな気持ちでした? 

吉春 (しみじみと)不思議だなぁって。聞いたら、教育の一環になるからって。素晴らしいなって思った。エイサーを教育の一環に取り入れるって、素晴らしいと思った。俺が子どもの時はウチナーグチ(沖縄の言葉)をしゃべると「金城くん、廊下に立ってなさい」って先生に怒られた。先生も訛ってるんだけどね。

ーーーアイヌの広尾さんとはその後、どのようにつながるんですか?

吉春 広尾さんが俺たちのエイサーの練習を見に広場に来たの。それで練習終わって呑みに 行って。そしたらこの広場で自分も踊りたいって。当時、灯りもなくて暗くて何もない場所だったのに。それで俺たちのエイサーも(東京沖縄県人会)青年部を離れて、東京エイサー

シンカになった頃で、自分たちでやらなければならない祭りがあると思っていた頃で。それがアイヌの広尾さんが広場に来たことをきっかけにチャランケ祭につながった。

ーーー沖縄出身の吉春さんがアイヌと出会ったのは、広尾さんが初めてですか?

吉春 青年部のアシバ祭で、アイヌの団体が出てたから。その頃から(現在もチャランケ祭を一緒に行っている)ユキノブ(宇佐幸将)やテルちゃん(宇佐照代)を知ってる。二人ともまだ子どもだったけど。

ーーーそうだったんですね!その頃からのつながりなんですね。

吉春 当時の仲間がアイヌの団体とも繋がっていて、アシバ祭に呼んでたの。それとね、俺、うるま祭り(*注)に行ったから。そこでアイヌと出会ってる。金環日食の年(1987年)に喜納昌吉が北海道からアイヌを呼んで、久高島が見える知念村の海辺の丘でやった祭り。

ーーーカムイノミもそこで初めて体験したんですか?

吉春 カムイノミはね、(恩納村の)万座毛でやったの。そこが金環日食が一番よく見えるっていうことで。そしたら晴れてね。俺もそこにいたよ。

ーーーカムイノミを体験した時、どう思われましたか? 

吉春 びっくりしたよ。ちゃんとオガミ(祈願)が残っている。自然の恩を受けて飾りがない。あのイナウも神社で祭壇に飾る幣(ぬさ)の原型があるでしょ。


(左)園田洋一さんと中野北口広場で (右)和光小で子どもたちに教えている様子

写真提供:園田洋一さん

 

*うるま祭り...喜納昌吉氏が1980年 から7年ごとに開催してきた沖縄の 文化と精神を伝える祭りとムーヴメ ント。沖縄が昔、国境がなく平和に 自然とともに暮らしていた時代の古 称を「うるま」という。吉春さんが 参加したのは1987年の第2回で、9日 間に渡って開催され、最終日に万座 毛でアイヌ民族と宮古島のカミンチュ (神人)の儀式による文化交流が行われた。


 ●チャランケ祭の始まり

ーーーチャランケ祭をやろうと決めてからは、どんな動きがまずはあったんでしょうか?

吉春 祭りをやるべと広尾さんに伝えて。それから、当時のアシバ祭の仲間の上里忠之、當眞嗣光、金城孝栄に相談して。民舞研にもいろいろ教えてもらって。そうとう協力してもらったよ。

(資金を集めるための)賛同券もつくったりして。

ーーー当時の会議は、どこでやっていたんですか?

吉春 和光小だったと思う。

ーーー最初に祭りを起こすことって大変なことじゃないですか。そこには民舞研と和光小の存在があったんですね。

吉春 うん。それと本部売店の売り上げ。それと東京エイサーシンカが「ダンス白州」に出て、もらった金も残していたから、それが大きかった。それを祭りの立ち上げ資金にした。

ーーー1回目からカムイノミを行ったんですよね?

吉春 もちろん。最初からそのイメージがあったから。東京の真ん中でカムイノミをやることに意味があると思って。オガミ(祈願)から始まってチャランケがある。 

ーーー第1回目は、北海道の帯広からアイヌの団体を呼んだんですよね?とてもすごいことだと思うんですが。どうして帯広の団体だったんですか?

吉春 広尾さんが帯広の人だから。それで俺たちも交流に行ったりしてたから。

ーーー資金など大変なことがあっても、北海道からアイヌを呼びたいと思ったきっかけは?

吉春 最初にアイヌのおばぁを呼びたい気持ちがあったの。広尾さんからね「アイヌのおばぁは道を渡るのもハジチ(民族の伝統習慣の刺青)を隠して暮らしてるって。わったーぱーぱー(自分の祖母)にもハジチがあったけど、80歳の時は風車(かじまやー)でオープンカーに乗って地域で祝福された。だけどアイヌは虐げられてると聞いて、東京で踊ってほしいなと。チャランケ祭の理由には、それもあったよね。祭りは伝えるものだからね。

ーーーどうして11月にやるようになったんですか?

吉春 広尾さんが、寒い時期にやりたいって言って。最初は10月にやったけど、そのうち11月になったの。俺たちにとってはぎりぎりじゃん、寒さ耐えられるの。11月の1週目くらいが。

ーーーチャランケ祭って、あの冷えた空気感の中で行うのが独特の魅力ですよね。空気も澄んできて、見えないものが見えてくる気もして。当時から20年以上続けると思ってましたか?

吉春 何も考えてないよ。だけどまわりが続くように考えていて。

ーーー自然と続いて来た感じですか?

吉春 うん。いろいろあったけどね。

ーーーこれからのチャランケ祭に向けてはどうですか。シタク(*写真参照)を実現できたのは嬉しかったですか?あれは20 周年のときに実現して、その後毎年行っています。

吉春 シタクを含めて、東京にはない祭りだけど……。 うん、シタクを含めてもうちょっと内容を濃くした方がいいと思う。

ーーー濃くとは?どういう点ですか…?

吉春 (長い沈黙のあと)シタクの竹を、ちゃんとみんなが編めるように。縄のつなぎ方、締め方をね。そういうことを含めて伝えていくために祭りがある。ただ縛ってたんじゃ昇れないよ。そういうのを含めて伝える。基本的なこと。 

 ーーー(苦笑い)たしかにそうですね…。若い世代が受け継いでいけるようにしたいです。

 吉春 うん。

 ーーー今日はありがとうございました。

 

 


(左)2013年のチャランケ祭で実現した、吉春さんの 故郷沖縄の南風原・津嘉山の大綱曳きの豊年祈願 の儀式をモデルにした「シタク」

(右)エイサーの地方をつとめる吉春さん。踊りの型の 多くも吉春さんによって編み出されている。

 

 

聞き手・文:小林直樹